August 28, 2011

「社会が悪い」か「自己責任」か。

非正規雇用が増えたり、幼児虐待事件が起きたり、あるいは無差別傷害殺人事件が発生したりすると、テレビに出てくるコメンテーターとかいう識者然とした人たちが、「国が悪い、社会が悪い」という話をしたり顔でおっしゃる。他方でネット上のコメントを見てると、当事者を嗤い、嘲り、「自己責任」だと叩く声が溢れてる。

どちらの両極端にも違和感があるんですよね。

世界や社会、政治経済のトレンドは最終的には個々人が生活、人生を生きていく上での出来事に織り込まれて表出するわけで、たいていの場合、自分自身に起きた事件は、自己の事件であり社会の事件であるという両義性を持っているのだと思うんです。

非正規雇用だの雇い止めだので先行きが見えない、という声に対しては、「正社員になればいいいだろう」「お前の努力、能力が足りないからだ」というありきたりな批判では済まないことはもう、共通の理解だと思います。社会、政治経済が非正規雇用を要請し、すでに労働者の3分の1なんていう数が非正規雇用になってる。だれが正社員でだれが非正規雇用になり、だれが自営業者でだれが資本家になるか、というのは個人の資質や努力、住んでいるところ、育った家庭環境などに影響され、非正規雇用に甘んじているのは自己責任だと言える部分もありますが、他方、社会が非正規雇用という形態を要請し、労働者の一定の割合が非正規雇用を選ぶように仕向けられているというのもまたそのとおりで、「私が非正規雇用である」というのは私の事件であり、社会の事件です。

幼児虐待事件のニュースを見ると、ホントに凹むし、虐待した親は獣以下だと憤りを覚えます。マスコミもそういう風に扇情的に報じる。しかし、虐待した親を罵り厳罰で対処する、すなわちその親の「自己責任」で片付けてしまうだけよいのかという疑問も残ります。その虐待が起きた家庭の置かれた状況はどのようなものだったのか。救いがなく助けを求めることもできない状況、暴走を止めることもできなかった状況とはどういうものだったのか。そういう状況を生んでしまった社会環境とはどうだったのか。「たとえどんなに厳しい状況であったとしても、子どもをあんな風に虐待することはあり得ない。」そう考える人も多いでしょうし、私もそのひとりですが、中には、それが稀だとはいえ、ある社会状況の下では幼児虐待事件に至ってしまう家庭もあるわけです。非正規雇用のように労働者の3分の1とかいう高い確率ではないにしても、わずかな確率ながら起きてしまう。幼児虐待事件を呼び込むのはその親の資質や経済状況など「自己責任」の部分も大きいとはいえ、社会の事件であることも否定できないと思うのです。

「なんとなくむしゃくしゃして」「やり場のない怒りで」引き起こされる無差別殺傷事件は、幼児虐待事件以上に発生件数が少ない事件だし、その動機と行為を正当化するのは難しい。同情の余地も少ない。でも、その犯人の性格や資質だけに発生原因のすべてが還元できるかというと、そうではないと感じる人も多いのではないでしょうか。だからといって社会が悪い、国が悪いと一足飛びには行かないけどね。大方の人はそんな事件は一生起こさないし、起こそうとも思わないわけですし。しかし、陳腐な言い方をすれば、社会の歪みが一番弱いところで破断する、という側面があるのも確かだろうと思うのです。「一番弱いところ」になったのは自己の責任だし、「破断する」のも自己の責任でしょうが、社会の緊張がその犯人のところにも蓄積してたのは事実でしょう。

幼児虐待とか無差別殺傷とかは感情が入りすぎるので、たとえば交通事故について考えてみる。
交通事故に遭うのは大方自己責任だと言われてしまう。たしかに、前方不注意だの脇見運転だのっていう自分の心がけ次第で防げる事故も多いと思う。でも、年に5,000人くらい交通事故死しているのは日本が車に依存した社会であるからだ、とも言えるのではないかと。そして、現に交通ルールを改定したり、警察が取り締まりを強化したり、飲酒運転撲滅の機運が盛り上がったりしたことで、交通事故死は減ったんです。つまり、国、社会の側が対応した事で交通事故死は減った。個別の交通事故は自己責任ではあるんだけど、一歩引いて統計的に見てみると、交通事故は社会的事件でもあるという証左ですよね。今の日本社会は、事故を起こしやすい人(と、運の悪い人)5,000人が交通事故で命を落とす「社会」。その5,000人に入るか入らないかの違いは自己責任に還元される部分も多いけど、そもそも車「社会」が原因である面も否定できない。

と、だらだら書いてますが、特にこの状況に対して処方箋を思いついたわけではないです。ただ、「国が悪い、社会が悪い」か「自己責任」かどちらかというのは命題の立て方がおかしくて、現実には政治経済や社会の影響は個人が遭遇する個人的な事件に織り込まれて表出するもんだよね、という話です。そして、事件を個別的に見れば「自己責任」が問われるものであっても、統計的に見れば政治経済や社会の影響があるのが分かる。

鎖を引っ張って切れたら、「鎖を引っ張ったのが悪い」のか「この輪のところが弱かったのが悪い」のか。答えは「どちらも」なのではないかと、考えてみればごく当たり前のことを思うのです。

August 19, 2011

祖父の記憶。

前回、実家に帰省した時のこと。

自宅にタクシーを呼んで空港に向ったんですが、初老のタクシーの運転手さんが、

「○○××さんのご家族ですよ・・・ね?」

と、おっしゃる。○○××は私の父方の祖父の名前だ。電話でタクシーを呼んだとき姓は名乗っているので、それで気になって声をかけたらしい。

「あ、そうです。。」

その祖父は、もうすぐ40になろうという私が幼稚園の年長組だったときに他界している。35年くらい昔の話だ。

「あー、いやー、やっぱりそうでしたか。昔××さんは△△の仕事をしてらしたでしょう?あのとき私らはよく●●に飯に連れて行ってもらってですねぇ・・・。」

当時の仕事のこと、同僚のこと、どんな話をしたか、それからうちの祖父が仕事を変わった事、運転しながら懐かしそうに話をされる。タクシーには私の母も一緒に乗っていたんだけど、母は部分的には運転手さんの話に覚えがあるらしい。

私には祖父の思い出はほとんどない。顔も覚えていない。思い出せるのは、今、私が実家にいるときに使っている2階の四畳半の部屋でいつも寝ていた姿、寝たばこをしていた姿、そしてなぜか祖父が乗っていた白い日産サニーの後部の映像。その後は病院で臨終の際に酸素マスクをつけた姿を病室の外からちょっと覗いたこと、葬式になっても「死」の意味が実感できず親戚のお兄ちゃんとケタケタ遊んでいた事、斎場ではなく自宅で葬式をして父が見慣れない黒い礼服で挨拶していた事、それくらいなのです。

不思議な気分でした。もう他界して35年も経った人なんだけど、家族でもない、今はもう何の接点もなくなってしまった人の記憶の中に生きていたんだと。孫の私も知らない姿がこの人の記憶の中に生きているのかと。

あの人はどんな人生を送ったのだろうか。戦争には行ったのだろうか。あの戦争をどうやって乗り切ったのだろうか。

そしてまた30年も経てば、きっとそのタクシー運転手も他界し、私もいずれ死を迎え、祖父の記憶はこの世から完全に消えてしまうのか。

終戦記念日は過ぎてしまいましたが、今年の8月15日にはそんなことを思い出していました。

次に帰省した時には、父に祖父のことを少し聞いてみよう。なんかだか変に照れ臭いけど。

August 14, 2011

ナミビア。



ナミビアに行ってました。純粋に観光で。
南アフリカの北西、大西洋に面した国です。ドイツ領南西アフリカから南アフリカによる統治を経て、1990年に独立した若い国です。国名の由来は国土の相当部分を占めるナミブ沙漠から。そしてその国土の面積は日本の2倍以上あるのに、人口は200万人強しかいないという人口密度の低さも興味を惹きます。

ドイツ領だった時代にも南アフリカが飛び地として統治していたWalvis Bayの空港から、大西洋に面したこじんまりとした町Swakopmundを経て2時間ほど北上すると、Cape Crossに到着します。なんとかっていうポルトガル人だかが最初に到着したところらしいのですが、そんな話も圧倒してしまうのはアザラシのコロニー。




死んでるように見えますが、生きてます。


さらに北上すると、Skelton Coast(骸骨海岸)と呼ばれる海岸線のドライブになります。船の座礁が多いことで有名な海岸で、途中には座礁したばかりの船もありましたが、時間が経つとこんな風に。


骸骨海岸、っていう名前も分かる。骨が落ちてました。


で、レンタカーがドロドロ。


海岸を離れ内陸側に進み、ナミブ沙漠観光の拠点の宿に。宿からの景色。


そして、Namib-Naukluft国立公園の入口から近いところにある砂丘、「Dune 45」。入口から45kmのところにあるからそう呼ばれているそうです。風が強い日でしたけど、みんな登ってますねぇ。


途中、ダチョウやガゼル、オリックスもいる。写真はオリックス。


そして、アプリコット色の砂丘。






さらに歩いて行くと、300年前に干上がったといわれている湖の跡。Deadvlei。


自然の景観というよりは、なんかのデザインのような景色です。


枯れ木は湖よりもさらに古く、600年〜900年前のものと考えられているそうです。


この地の砂は鉄分を始めミネラルを多く含むせいで重く、砂丘の場所があまり変わらないそうです。

こっちの湖にはまだ水がある。


砂丘に向う途中の風景。まったくもって何もないっていうか、わけが分からない感じ。


植物の生えているところもある。これは通称「ostrich cabbage」。「ダチョウのキャベツ」。


ヘリコプターで行けるのは、沙漠のほんの入口のところまで。それでも壮大な景観です。






地表見えるぶつぶつの模様は「fairy circle(妖精の輪)」。そこだけ草が生えない。地中に草の生育を阻むシロアリがいるとも言われているけど、その「妖精の輪」の土を取って来て虫を除いてから鉢植えの土にしても植物が枯れるそうで、本当のところはよく分からないとガイドさんは言ってました。




宿泊中の宿を上空から。


草原に沈む夕日。




ナミビア。植民地や信託統治領としての歴史や、少数民族の歴史、現在の政治経済など興味深い話もいろいろあるんですが、とりあえずはこの圧倒的な景観。無粋なことは今は語りますまい。

広い国なので私たちが見たのはほんの一部だし、写真をいくらアップしてもやっぱり実際に見ていただかないとこの壮大さは分かりづらいですよ。日本からはバンコク、シンガポール、香港、ドバイなどを経由してまず南アフリカに入ってからさらに飛行機で2時間ほど。さらに車で400km〜500kmは走らないとナミブ沙漠の入口のSossusvleiまで到達しないので簡単じゃないですが、行ってみる価値はあると思いますよ。

おまけ。
記念撮影するため、道路脇に打ってあった杭の上にカメラを載せようとがんばっている私。